平出隆「伊良子清白」(新潮社)

本の函と装丁に惹かれるのはきわめて稀なことだ。三年前、ある古書店で岩波文庫の伊良子清白「孔雀船」を手に入れた時、たまたま同じ店にあった本書が目に入った。それはまことに魅力的な本であった。幅広の背の右三分の一が暗い灰色の地で、左三分の二が薄い灰色の地で分けられている。その地味だが美しい地柄に小さな絵柄が浮き彫りに施されている。中の本は「伊良子清白 日光抄」「伊良子清白 月光抄」の二分冊に分かれており、前者は白地にグレー、後者は白地にベージュに交互に地色が補完しあうように装丁されている。函の浮き彫りは清白の気象学書欄外への書き込みであり、「日光抄」「月光抄」はやはり清白の「月光日光」から採られている。さらに言えば、装丁のみならず活字の大きさ、配置、ノンブル、版面のレイアウトなどがじつにうまく按配されている。目次は各巻の主要参考文献の前に置くという凝りようで、しかも第一章、第二章といった割り振りではなく、その一、その二であり、その上章名はポイントを上げた活字を用いている。全体として繊細なデザイン感覚によって精妙に作られた本ということができる。書物の氾濫する今日、美しい物を求めることがいかに難しいことであるか・・・。

阿古屋の珠は年古りて其のうるみいよいよ深くその色ますます美はしといへり。わがうた詞拙く節おどろおどろしく、十年經て光失せ、二十年すぎて香去り、今はたその姿大方散りぼひたり。昔上田秋成は年頃いたづきける書深き井の底に沈めてかへり見ず、われはそれだに得せず。ことし六十あまり二つの老を重ねて白髪かき垂り歯脱けおち見るかげもなし。ただ若き日の思出のみぞ花やげる。あはれ、うつろなる此ふみ、いまの世に見給はん人ありやなしや。

ひるの月み空にかゝり

淡々し白き紙片

うつろなる影のかなしき

おぼつかなわが古きうた

あらた代の光にけたれ

かげらふのうせなんとする

これは岩波文庫に採録された昭和十三年の序である。この忘却の淵にあった詩集と詩人の生涯を平出氏は遺された伊良子清白の日記から辿る。昭和五十八年に二十五巻にわたる日記遺族から渡されてから雑誌「新潮」に連載されるまで実に二十年近い歳月がたっている。この本はその歳月の長さだけによらず一人の詩人の生涯を追うことがいかに困難な作業であるかを語っている。この流浪の生涯を送った詩人の軌跡を追う平出氏もまた詩人であり、清白がなぜあんなにも潔く詩の世界をあとにしたかという謎を、自身の詩を止めるかという問題と重ね合わせながら追跡していく。

「私は文語による清白の日録文を自分の文章に溶かし込み、最低限の措辞や説明を補って口語文として組み替えている」(「月光抄」p137)本書が成立するまでに長い時が必要であったのはおそらくこのためであろう。「孔雀船」はわずか十八篇を編んだ薄い冊子に過ぎないが、その一編一編に医を生業としながら日本各地を漂泊せざるを得なかった詩人の生涯が強く投影されていることがわかる。  私にとって非常に興味深かったのは、清白と明星に登場した石川啄木からあきらかな影響を受けているという指摘の「その四十 啄木」の章と、画家青木繁の「海の幸」に触発される形で書かれた蒲原有明の「海の幸」と伊良子清白の「淡路にて」の比較に触れた「その四十七 海の幸」の章である。著者は、当時まだ熟さないでいた詩人の情熱に引かれていたことに注目する。さらに「淡路にて」という五五調の一編ははっきりと蒲原に拮抗するものであり、

鳴門の子海の幸

魚の腹の胸肉に

おしあてゝ見よ十人

同音にのぼり来る

「十人」は青木繁の絵の中の漁夫たちの数と合致している。絶唱というべき「同音にのぼり来る」までの最終四行は、有明の詩を凌いで「海の幸」と共鳴しえた。(「月光抄」p15)

と断ずる。とまれ伊良子清白の評伝の嚆矢として本書は存在する。将来、詩人の詩を愛読する読者にとってかけがえのない指標となるであろう。

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