この文庫本には珍しい活字が使われている。同定はできないがセンチュリーに近い。もしかしたら訳者の嗜好を反映しているかもしれない。本は著者を表す。著者が装丁と活字に無関心であるはずはない。
平出隆「鳥を探しに」という長編小説の広告が新聞に出た。この広告はおれがおれがといった顔だけがのさばった五月蝿い広告のなかでぽつんと空白を占めていた。まるで泥中の蓮のように。著者の「伊良子清白」(新潮社)は非常に美しい本であったが、私には広告にも彼の粋を見せられた気がした。
エドモンとジュールの二兄弟の同時代には他に主に1820年から30年に生まれた作家、詩人、批評家がいた。その多くがほとんど本書の中で直接話をしている。それだけ文壇が狭かった、ということなのだろう。それにしても狭い世界である。本書を読むとこの頃の文人は自作を朗読するのが当たり前だったことがわかる。ロシア文学を読んでも事情は同じである。
日記の中にしばしば出てくるフロベールの「ボヴァリー夫人」とボードレールの「悪の華」」が刊行されたのが1857年。奇しくも両書とも風俗壊乱の疑いで裁判となった。おそらくこの時期が新聞・雑誌・機関紙・誌による売文が成立した頃である。(このなりわいの土壌であるジャーナリズムが崩壊の危機にある)
この時代の文人著名人を多く撮影したナダールとカルジャの写真が本書でも収録されていてたいへん興味深い。プランセス、西園寺公望など初めて目にする写真もかなりある。1850年頃の新技術であった写真は撮影に随分と時間がかかる代物だった。そのため被写体は1分近く同じポーズでいなければならなかった。同じ人物でも随分と異なった印象の写真が存在するのはこのためである。
「時代のしるし。河岸の古本屋にはもう椅子がない。フランス書店(アナトール・フランスの生家)は椅子のある最後の書店となった。いろいろ本を買う合間に、少しおしゃべりしたり、暇つぶしができる最後の本屋だった。いまでは立ったまま買わせられる。「これは?」「いくらいくら」それだけである。こんにちのがつがつした商売がこういう本のあきないの仕方をもたらしたわけだ。むかしは、そぞろ歩きをしたり、ぶらついたり、おしゃべりをしながら親しい付き合いのなかでの古本さがしだった。」(1867年1月2日)
「万国博覧会、現存するものへの最後の止め(とどめ)、フランスのアメリカ化、芸術に対する工業優先、展示絵画をじりじりと席巻しつつある蒸気脱穀機、蓋付安全おまるに空気入り人形――要するに『物質物品連盟(フェデラシオン・ド・ラ・マティエール)』といったものなのだ」(同年1月12日)
それにしても全訳本にしてほしかったナ。